三木さん,こんばんは! お言葉,ありがとうございます。 (このページは,限定公開ですので,安心してご覧ください。) こうやってお伝えいただけること,本当に嬉しく思います。 今回のコンクールは,三木さんをはじめ役員さん,後援会の皆さんのサポートも有り,大きな成長を遂げることができたと感じております。 子どもたちは本番,間違いなく120%の力で演奏できていたと感じます。 しかしながら,コンクールは客観性であるので,もどかしく感じはします。 こんなことを言うとまた怒られそうですが,「銀」であったことや,「全道大会」にでられなかったこと自体は,自分は実はなんにも感じておらず・・・・・・。「そっか。銀かぁ。」くらいなもんなんです。 ごめんなさい,本当に。 私が子どもたちに楽器を通して伝えたいことは別にあり,コンクールウケする曲作りは日々していないので・・・・・・。 賞に対して感じたことは,「日本は音楽を通して,子どもたちに何を伝えたいのかな・・・・・・。」という疑問くらいなものです。 終わりのミーティングで,ちょっと意味深なことを言ってしまいました。 今回,いままであまりやらなかったことをしてしまいました。 「音を整えるために,曲の雰囲気にあった音を出せないメンバーをどんどん削っていく(該当する旋律を演奏させずに休ませる)」手法をとったことです。 手っ取り早く体裁のよい音楽を作ることはできます。確かに,効果はありました。 (ちょっと自分が躊躇してしまったために,中途半端になってしまいましたが。) しかしこれが,本当に子どもたちのためになるのか,まだわかりません。 自分が演奏する機会を奪われたメンバーは何を思うのか。 自分が演奏しなかった演奏が高い評価を得たとき,演奏しなかった自分は何を思うのか。 自分が演奏しなかった曲が高い評価を得て,親にすごかったね!やったね!と伝えられるのと, 自分がたどたどしくも演奏に参加し,高評価ではなくとも,心を打つ演奏ができてそれが親に伝わったときと。 今日も,「いい演奏だった!」と言われつつも,自分の旋律をカットされた子どもたちは何を思っているのか。 そこで音楽を楽しく思えるのか。 はたして,そういった経験は小学校時代に必要なのか。 謎すぎて,迷宮入りです。 もちろん,「金賞」という響きは大変よく。 私だって銀より,金がいいですし,それに全道,全国が付加されれば,より誉れとなり,対外的印象も跳ね上がり,私も鼻高々です。正直,そういう思いをしたい自分だっていることを自覚しています。 でも今回,仮によい賞をいただけたとしても,そんなこんなで果たしてそれを心からよろこべたかというと,わかりません。 私が今日,一番つらかったのは。 お手製のお守りを握りしめながら祈り,そしてその思いが悔し涙に変わったメンバーの姿を見たことです。 去年もそうでした。 そうだよな。あんたたち,がんばったもんな。 ごめんな,俺,力不足でな。と。 結果がともなわなかったことよりも,メンバーを笑顔にさせてあげられなかったことが悔しい。 と。 そんなこんなで私の1年でもっともつらい時期が,残念ながらおわりました。 いつもごちゃごちゃ考えててなんなんですが,ただ単に,圧倒的に上手ければいいんだろうと思うのです。 そのための課題も,くしくもコンクールに取り組むにあたって見つかっています。 2学期からまた,スタートしますよ。 最後に。 あるメンバーに,「なんでコンクールなんてあるんだろう・・・・・・?」と聞いてみました。 するとその答えは,「夏をのりきるため!」なのだそうです。 暑い夏,練習したくなくなりますよね。でも練習しないと上達しない。 「コンクール」というものがあれば,それに向かって練習をするだろう。 ということなのだそうです。 これはおもしろいですよね。 その子は意識していないでしょうけれど,これは, 「コンクールでの受賞が目的なのではなくて,自分が大事にしている楽器や音楽に真っ直ぐ向かうためのきっかけ」にコンクールがある,という考えなのかもしれません。 この考えは,規約の新設した目的の4「生涯の自己実現のための表現手段を培う。」にあたるものかと思います。 これが,自然に,子どもの言葉で出てきたのは本当に嬉しく思いました。 だからといって,コンクールから逃げていい理由にはならないのですがね。 と,こんな感じで正直なところを書いてみました。 毎年悩むんですよ。 でもね,三木さんのお言葉,素直に嬉しいです。 おかげで,また頑張れます。ありがとうございます,本当に。 今後とも,よろしくお願いいたしますね。 あ,「キッズアナリーゼ」というのは,指導者の研修なのです。 子どもたちは参加しません! 以上,長文になりまして,すみません。 コンクールで一区切り。 また,今後ともよろしくお願いしますね! 安部 |
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